偽善者で結構である。
自分を一歩踏み出すと、八方美人と呼ばれる話。
人間関係を作っていく中で、裏切りや絶望、「こんなはずじゃなかった」と思うことが多々ある。
最初は仲良く楽しかった人が、ある日突然、利害的に移ってしまう。
そういう世の中だ。
今日僕は、僕自身がよく偽善者に見られる、という話をしたい。
おせっかいは、快感である
僕は性格上、かなりのおせっかい者だと思っている。
仕事を通じて誰かのためになること。その人と時間を共にすることで、対象となる人が大きな成果を出したり、何かを成し遂げたりする。正直言うと、それを僕自身が快感に覚えている部分もあるだろう。
僕自身が何かを達成し、何かを経験し、喜びを得る。そこに幸福がないわけじゃない。お金を稼ぎ、出世をし、地位と名誉を手に入れる。こんなことで得られる欲求ももちろんある。
少し聞こえは悪いかもしれないが、僕は、高い車や家、かなり金を使った海外旅行、経済的な部分で得られる経験というのは、一通りしたと思っている。
しかし、今となっては、嫁に「誕生日プレゼント、欲しいものあるの?」と聞かれても、正直「ない」というのが現状だ。
またまた鼻につくかもしれないが。大抵のものは、もう買えてしまうのだ。
そうなってくると、僕自身が本当に欲しいものは何なのか、という話になってくる。
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欲しいものは、相手によって違う
僕が思うに、欲しいものは家族や友達、同僚によって異なってくる。
例えば家族なら、何気ない日常や、日々の食事を共にする時間だ。
高い料理だろうが安い料理だろうが関係ない。その時間を共にすること自体に喜びを感じている。毎日当たり前のようにくだらない会話をし、どこの家庭にもある日常的な話題にケラケラ笑う。そんなことが、とても楽しいと思ってしまうのだ。
友達だと、また楽しみ方が違う。
高校時代や大学時代の友達なら、それこそ金や損得の話はほとんど出てこない。「お前のあのときのミス笑ったよな」「大学時代のお前の彼女、最低だったよな」「あの時、お前カラスに頭つつかれてたよなっw」。そんな当時の思い出を振り返り、時間を共有し、タイムスリップするのである。
何度会っても同じ会話。そろそろつまんないかもなと思うかもしれない。成長してないかもなと思うかもしれない。でも、過去という時間を共にした彼らとでしかできない会話。そんなものに、僕は大切さを感じている。
では、仕事ではどうだろうか。
部下や同僚とは、目指す社会貢献や会社の成長、彼らが描く理想の家庭や人生、そういったものと対峙する。金銭的な部分から社会貢献、自己実現、自分自身の生き方まで。目標があり、共に歩むから、友達ではなく同志として歩める。そんなことに喜びを感じている。
ここで難しいのは、どの立場でコミュニケーションを取るかで、相手との関係が全然変わってくる、ということだ。
夫婦ですら、元をたどれば他人である
正直言う。
高校や大学の友達など、利害すら求めていなければ、それ以上でもそれ以下でもない。ただ楽しい時間を共有した仲間である、という事実からは一切ぶれないだろう。
そして家庭においては、僕と家族、つまり直接的な関係をどう作るか。それに付随する経済環境や子育ての思想、さらには家族の将来像。こういったものに体重をかける。
そしてこれらは逃げられないものだからこそ、喧嘩をしても、亀裂が入っても、修復に努めるのだ。
もちろん離婚という選択肢もあると思う。人間は分かり合えない生き物であり、夫婦ですら、元をたどれば他人だ。
そんな冷静な視点があるからこそ、お互いを理解するスタンスを大切にしている。分かり合えないからこそ、理解できない点、傷つけてしまうことがあるからこそ、相手を思いやる気持ち、壊れた関係を修復したいと思う気持ち。こういうものを、絶対に諦めてはいけないと思う。
すれ違いが起きた段階で、もう戻すのは不可能だよ、と思う人もいるだろう。
でも僕は、本当にその人と向き合いたいのであれば、どんな傷やすれ違いも諦めきれない人間なのだ。
「この人、何なんだ?少し気持ち悪い」
直近のSNSを見ていると、Substackでは界隈や特定の誰かに対して違和感を覚えることが、正直言うと多い。
たまたま昨日、よしなりさんとライブ配信をさせていただいたので、彼についても話したい。
正直言うと、よしなりさんがSubstackに訪れたとき、彼は運営側からコメントができなくなる、つまり行動の規制が入るぐらいのアクション量をこなしていた。ありとあらゆる人の投稿に、いいねやコメントを繰り返す。そう、尋常ならぬ行為だ。
当時の僕の心の声。「この人は何なんだ?少し気持ち悪い。しかもおじさんだろ」。
(よしなりさん、すいません。w)
正直、当時は距離を置きたかったし、できることなら絡みたくないと思っていた。
もちろん同じように、こういう感情を誰かに向けることもあるし、それを否定的に思うこともあった。もし僕がSNSを一個人、僕だけの楽しみとしてやっているなら、もう一生絡んでいないだろう。
しかし、僕がSubstackをやる理由というのは、誰かと絡み、誰かの思想や行動に共感すること。その中で生まれる人間関係や、もしかしたらビジネスに発展する、そういう時間を共有したいと、本気で思っているのだ。
枯れた都市で、誰と楽しむんだ
ここまで来ると、いよいよSubstackがどこまで盛り上がるのか、というのが非常に重要になってくる。
現在のSubstackは、正直まだまだユーザーが少ないと思っている。XやInstagram、TikTok、そういったプラットフォームにいるユーザーが、Substackに入ってこなければいけないと思っている。
いくらコミュニティや人とのつながりを求めて楽しんでいても、Substackという都市が廃れてしまえば、そこはただの枯れた都市と化す。
だからこそ僕は、特定のコミュニティに属していない。逆に言えば、ありとあらゆるコミュニティに顔を出している。そしてその中にいる人にも、絡んだりしている。
そう、八方美人に見えるのだ。
偽善者に映るのは、境界線を踏み越えたからである
自分のことだけ楽しんでいれば、正直こんな風に見られることはないだろう。
自分の好きな人は好き。嫌いな人は嫌い。以上だ。
でも、このプラットフォームを良くしたい、誰かを支援したい、誰かのために動きたい。そう動くと、結果的に裏切りに見えたり、誰かを軽視しているように映る瞬間が、大いにあるだろう。
僕はビジネスの世界で、こんなことをもうとっくに経験している。
自分という枠組みを超えて、隣にいる誰か、さらにその隣にいる誰か、ひいては企業、さらには社会。より広い世界に対してアプローチしようとすると、必ず偽善者に映るのだ。
しかし、これは別にどうだっていいと思っている。
個人を中心とし、自分の気持ちいい空間でコミュニケーションをするのは、悪いことじゃない。
でも、自分が心地いい世界、自分が信じるものを守るという話と、その境界線を一歩踏み越えて、誰かのために、何かのために行動する世界とでは、見える世界が違うんだ。
孤独と対峙することでしか、深い関係は作れない
いつも僕が孤独を感じる瞬間。
それはいつだって、誰かのために、何かのために役に立とうと踏み込んだのに、なかなか結果が出ない。そういうときだ。
でも結局、この孤独と対峙することが、いつか自分の喜びであり、自分と深い関係値を作れる、そんなものでしかない。
そして僕はいつだってそれを夢見て、それを経験したことがある人間として、これからも活動を続けていきたいと思う。
有料記事をnoteで出してみたり、好きじゃなさそうな人に絡んでみたり。意味のわからない支離滅裂な行動が、目に映ることがあるかもしれない。
しかしそれは安易な行動ではなく、すべて考え、自分で意思決定をし、一歩踏み出しているからこそ起きる摩擦であり、批判だと思っている。
そして、この批判や摩擦に立ち向かうことができる。
それが僕の唯一の才能であり、これをひたすら続けてきた自負が、誰よりもある。


奥様との向き合い方に共感するところが多くありました。
奥さんとはいえ他人であるけれど、唯一血の繋がりを超える関係を作れるのは妻だと思っています。
ぶつかりも合わない価値観もすり合わせて少しずつ歩み寄りたいという想いです。
もちろん子供たちも大事ですが、その子供たちにも血の繋がりを超えるかけがえのない他人に出会ってほしいです。
しがないさんがどういう理由で私とからんでくれているのかはわかりませんが、Substackを始めたばかりで、まだ右も左もわからなかった頃。私の記事をしがないさんがリポストしてくれて、それがめちゃくちゃうれしかったのを覚えてます。あの時の経験があったからこそ、サブスタ沼にずぶずぶと足を踏み入れられるようになったと、そう思ってます。
感謝してます✨