信念を持った愚か者と執着しない自由人の話。
自分を大切にしたつもりが、周りに振り回される人とは。
自分を大切にしろ。
よく聞く言葉だ。自己啓発でもSNSでも、みんなこれを言う。信じた人を信じきれ。やりたいことをやり切れ。家族との時間を守れ。心地よい世界で生きろ。
全部いい。全部わかる。
Substackを眺めていても、テーマは無数にある。有益系、AI、攻略、エッセイ、グルメ、健康、子育て、投資、思想、哲学。ジャンルはバラバラだ。
でも、根っこは1つだと思っている。
自由と人生
経済的自由。時間的自由。人格的自由。思想的自由。頭に何をつけても、最後は「自分の人生を豊かにしたい」に着地する。もちろん、僕もその1人だ。
今日は、そんな自分らしく生きることと信念を持つこと不自由さの矛盾について話したいと思う。
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で、あなたは自由になったのか?
ここで1つ聞きたい。
子供の頃と比べて、あなたは自由になっただろうか。
……イエス、と即答できる人はほぼいない。
理由は単純だ。社会は、常に誰かと一緒だからである。家庭、地域、学校、会社。SNSに逃げても、そこにも他人がいる。自分以外の「他」が、どこまでもついてくる。
そんなの当たり前だろ、と思うかもしれない。
じゃあ、なぜ息苦しいのか。
自分らしさを追い求めて、知識を集めて、成功体験を積み上げて、「私にはこの生き方が合ってる」まで辿り着いたはずなのに。なぜ、こんなに窮屈なのか。
信念は、いつのまにか鎧になる
答えはこうだ。
信念を持った頑固者になっているからである。
正確に言うと、育てた信念を、捨てられなくなっているからだ。
これに気づいている人は、意外と少ない。意志や信念は、強く持てば持つほど、それに反する人間や出来事を許せなくなる。世の中の大半が自分と違う方向に動いた瞬間、猛烈に辛くなる。不安になる。SNSでこの感覚を経験したことある人は多いだろう。
自分らしさを突き詰めて、信念を持って、自由を求めた。
その結果、不自由になっている。
自分らしさを求めて、自分で自分を縛る。
傍から見れば、ただの愚か者だ。でも、当の本人はまず気づかない。
Substackで、それはこう起きている
抽象的な話をしても伝わりにくいので、身近な例を出す。
たとえば、最初は純粋だったはずだ。書きたいことがあった。届けたい誰かがいた。
読みたい人と繋がり、繋がりたい人と繋がる。これでいいと思っていた。
しかし、目の前で、相互フォローが始まる。数を増やすことを目的とする人がいる。
Substackで有名になりたい人。インフルエンサーになりたい人。
気づくと、自分よりも数字を獲得し、利益を上げている人が増えている。
純粋な発信をしたいのに、フォロワーや購読を増やしている人が気になり、通知の数字に一喜一憂する。
それでもって、なりふり構わず行動できない。結果もでない、そして自分は純粋な発信をするんだと、、、そう堂々巡りだ。
純粋な発信をすると心に決めた人ほど、他人の発信を見た瞬間、心がザワつくようになる。
「あいつ、たいした中身もないのに稼いでる」
「あの思想、薄っぺらいのにバズってる」
「なんで自分じゃなくて、こいつなんだ」
嫌悪感。嫉妬。違和感。
わかる。痛いほどわかる。僕にもある。
でも、ちょっと待ってほしい。それは相手が悪いんじゃない。「こうあるべき」という自分の信念が、相手を許せなくしているだけだ。
有益じゃなきゃ価値がない、という信念を持てば、くだらない投稿でウケてる人が許せなくなる。
丁寧に積み上げるべきだ、という信念を持てば、雑にバズった人が許せなくなる。
信念が強いほど、世界は「許せないもの」で埋め尽くされていく。
自由になりたくて発信を始めたのに、他人の投稿を1つ見るたびに不自由になっていく。自分の信念が足枷になる。これ以上の皮肉があるだろうか。
集めたものが、足枷になる
厄介なのは、この足枷が「悪いもの」じゃないことだ。
あの経験、この成功体験、身につけた知識、築いた人脈。どれも本物で、どれも自分を作ってくれた大事なものだ。捨てがたくて当然である。
でも、抱えたものが増えるほど、身動きは取れなくなる。
「これは苦労して手に入れた」「これは正しかった」。そうやって握りしめたものが、いつのまにか足枷になり、自分の行動や心を狭めていく。新しい考え方が入る隙間がなくなる。違う意見が、ただの敵に見えてくる。
さらに厄介なのは、たくさん抱えている人ほど「自分はちゃんと生きてきた」と胸を張ることだ。実際その通りなのだ。何も間違っていない。
ただ、その握りしめた信念のせいで次の一歩が踏み出せなくなっていることに、本人だけが気づいていない。
僕が本当に大切にしているもの、2つだけ
じゃあお前はどうなんだ、と。
僕もSubstackで「つながり」だの「共感」だの「何かを成し遂げること」だのと言っている。相互フォローはしない、数字より人だ、なんて偉そうに書いている。同じ穴のムジナで、自由を求めて不自由になってるんじゃないのか。
違う、と言い切れる。
僕が根っこの根っこで大切にしているのは、実は2つだけだ。
1.自分の人生を楽しむ。
2.自分以外のたった1人の人生を、自分の人生以上に最高にする。
※2に該当するのは、妻だ。
以上。シンプルにこれだけである。
つながりも共感も嘘じゃない。金を稼ぐのも好きだ。世の中の情報も欲しい。これまでの経験も仲間も、心の底から信用している。今の僕を作ってくれたのは全部これらだし、未来の可能性をくれるのも全部これらだ。
でも、はっきり言えることが1つある。
明日、これが違うと思ったら、僕は全部捨てる。
上場企業の社長を辞めたのも、地位も名誉も金も手放したのも、これと全く同じ理屈だ。あの時だって、周りには止められた。「もったいない」と何度言われたかわからない。でも、そのもったいないという気持ちこそが、足枷なのだ。あの時、僕は「捨てる」を選んだ。それが、あの局面での最適だっただけの話だ。
全部捨てられる奴が、一番強い
人間は不思議だ。
自分を大切にするために、いろんなものを集める。集めたものにすがって、信念を作る。ところが、大事に育てたその信念を、今度は捨てられなくなる。
自分らしく生きようとしていたのに、いつのまにか、自分で自分を締め上げているのだ。
信念を持て。でも、それに執着するな。
ここで誤解しないでほしい。捨てるべきは、信念そのものじゃない。信念にこびりついた、無駄なプライドやこだわりの方だ。
純粋な発信をしたい。でも、数字も、売上も、つながりも欲しい。これは矛盾じゃない。信念と相反するものを、敵として拒絶するんじゃなく、覚悟を決めて取り入れる。調和させる。融合させる。時には、思い切って全部捨てる。
大事なのは、どれか1つに固執しないことだ。拒否するのか、共存させるのか、調和させるのか、融合させるのか、それとも全部捨てるのか。その比重を、局面ごとに自分で選べる。1つのやり方を握りしめた瞬間、それがまた新しい足枷になる。
稼いでるあいつが許せない気持ち。思想の合わないやつへの違和感。それは、あなたの信念が、心や行動を邪魔している証拠だ。それ自体は、悪くない。むしろ、まだ何かを諦めていない証拠でもある。
ただ、その信念に「執着」した瞬間、鎧は鎖に変わる。
僕は信念を持つと同時に、その比重をいつでも動かせる覚悟を持っている。取り入れることも、共存させることも、そして、いざとなれば全部捨てることもできる。
全部捨てられるという最後のカードまで握っているから強い。
固執しないというプライドを持っている奴が、たぶん一番自由に人生を楽しんでいる。それが執着しない自由人だ。


しがないさん
いつもしがないさんの記事には
うん!そうだな、と深く頷いてしまいます。
自分の人生を楽しむこと、
自分以外のたった1人の人生を、自分の人生以上に最高にすること、
それをさらりと妻と言えるしがないさんがキュンとするほどかっこいいです。
様々な経験と見てきた大きな世界から、
結局人生行き着くところは、これなんだと感じました。
私は、まだ夢半ば。家族の幸せ、そして、同じ志をもつ仲間たちを見つけて自分の周りにいる人たちを幸せにしたいと考えてしまいます。
この「べき」って自分を守り鼓舞してくれるものでもあるんだけど、枷になってくると今度はゆるめたほうがラクに生きれるんですよね〜。
『この考えかたが人生に楽しさをもたらしてるかどうか』って俯瞰することは大切だな、と思い出させてくれる記事でした☺️